首都ガルボイグラードの郊外、最早道とは呼ぶべくもない樹林の中をアレクサーは真っ直ぐにひた走っていた
・・・夏の盛りである七月とは言え、ブルーグラードは極寒の大地
薄手の上着を羽織っただけの軽装では夜の時分には多少の肌寒さを覚えて当然だが、今のアレクサーに取ってはそれは全く関係の無い事だった
「…、どうか無事でいてくれ…!」
常に現実のみと顔を衝き合わせ通しのアレクサーにしては珍しい祈りの声が、その口を突いて漏れる
…祈るだけでが助かるのであれば、何万回祈っても厭いはしないだろう
土を蹴る足音を重ねる度、アレクサーの脳裏を嫌な予感が横切る
アレクサーに脅迫状を突きつけた男――無論、嘗ての部下であるが――の顔を思い起こし、アレクサーは短く舌打ちをした
セルゲイめ…あの男、やはり只者では無かったか…!
その男―セルゲイ―は、アレクサーの旧部下の中でも人一倍残忍且つ手段を選ばない事で知られていた
…何を隠すまでもないが、アレクサーが己の父であるピョートルを殺害する際、その実行部隊員の要として選んでいたのがセルゲイであったのだ
息子によって切り刻まれた統治者・ピョートルの無残な姿を見て流石に一瞬たじろいだ部下達に混じって、セルゲイだけが毛一つほども表情を動かさなかったのをアレクサーはしかと憶えていた
あの男、今更何を考えているのか…。
しかし、あの男が裏で糸を引いていたとすれば、春先にを襲った事を始めとした一連のNGO狙いの回りくどいやり方にも得心が行く
つまり、最初からこの俺が狙いだったと言う事だ…!
アレクサーは、元来から険しいその目元に更なる険しさを加えた
短い夏を謳歌する青草を踏みしだいた跡には、植物独特のヘキセノールの香りだけがほんのりと彼の軌跡を描く
針葉樹林を奥深く分け入った所でアレクサーは僅かに速度を落とし、周囲に素早く目を走らせた
流石に、此処まで奥深い森林の中には住居はおろか他の生物の気配さえ無いが、用心には用心を重ねるに越した事は無い
側に潜む人の気配も、そして追っ手の存在も無い事を何度も確認の上、アレクサーはようやく走る足を止め、一本の木の傍らにゆっくり歩み寄った
自らの肺に大きく空気を送り込み、白く荒ぐ呼吸を整える
――ロシア極東部の針葉樹の大部分は、主にカラマツによって構成されている
アレクサーの立つこのガルボイグラード郊外の森もその例に漏れず、殆どがカラマツに占められている
樹高の高い松の木々に埋もれる様に一本だけ自生する樺の木の前で、アレクサーはその白い幹に手を触れた
「…まさか、このような形で再び此処に立つ事があるとは思いもしなかったが…。」
二年前、父への深い慙愧の念と共に葬った筈の、自らの「武力」の証。
…それを今、再びこの身に纏う時が来た
唯、今度は違う。…真に護るべきものを悟った今度こそは…!
樺の木から数歩身体を遠ざけ、アレクサーは右腕をゆっくりと挙げると伏せた目をカッと見開いた
天を仰ぐ右手の先にいつかの夜が見た青い光が球を描き、アレクサーの身体全体を瞬く内に包んだ
球の中心から絶えず発する気流に押され、アレクサーの金色の髪と上着の裾がはたはたと舞い上がる。――そして、周囲の木々の枝までもがざわざわと音を立てて揺れる
バシッ。
アレクサーが手を地面に向けると樺の根元の土が深く抉れ、青い光の散逸した跡には小規模のクレーターが形成されていた
…そのクレーターの中心には不思議な事に例の樺の木が傷一つ無く佇み、その幹の裾近くに直方体の箱が姿を現した
くすんだペールブルーの箱は、一体何で構成されているのか判らない
側面に彫り込まれた紋様を暫し無言で見遣り、アレクサーは一つ頷くと紋様中心部の凹凸に自らの手を掛け、一息に引いた
×××××××××××××××××××××
「アレクサー!……来ては駄目!」
ガルボイグラード郊外にぽつんと建つうらぶれた古倉庫に、の悲痛な声が木霊した
木炭用の木材置場と思しき煉瓦造りの倉庫には小さな窓がいくつか設えられており、その一つから外に立つアレクサーの姿がちらりとの視界を掠めたのだった
刹那、ぐい、との身体がその縛めごと後ろに強く引かれる
「おっと、もう少し大人しくしてもらおうか、お嬢さん。…さあ、愛しい男の御到着だ。」
耳元に吹き掛ける様な、生ぬるいセルゲイの声音にの嫌悪感は内心否が応にも最高潮に達したが、時間の経過と共にこの男の内包する危険性を己の肌で感じたはただ押し黙るより他に術が無かった
…だが、扉の外に立つ男はアレクサーだ。市井の男とは違う
しかも、今や彼が鬼神の如く怒りに猛り狂っているのは窓越しにその目を一瞥しただけで誰にでも判る程だ
セルゲイを除く他の男たちは一様にその場でゴクリ、と固唾を飲んだ。――彼らはアレクサーを前以て待ち受ける側であるにも拘らず
「…お前達、此処まで来て怖気付いているのか。」
片腕での身体を捕らえた姿勢のまま、セルゲイは仲間達にククク…と侮蔑の混じった笑いを投げ付けた
小屋の扉に据えられたその視線からは、寧ろこの緊張を愉しむ余裕めいた冷たさが感じられる
腰の落ち着かない様相の男達を片手で制し、セルゲイはプッと唾を床に吐き捨てた
「………来るぞ。」
セルゲイの語尾と時を重ねて、小屋の扉が音も無く吹き飛んだ
一瞬の出来事ゆえに呆然とした男達は、木製の扉の在った場所に現れた男の姿に正気を取り戻すとバタバタと二、三歩後退した
どうやら腰を抜かしたと思しい一人の男が武器を杖代わりに身体を起こしながら、重苦しく呻く
「アレクサーが……氷闘衣<アイスメイル>を………!」
夜陰を怜悧に反射する青白い鎧を纏い、アレクサーは一歩前に踏み出した
つい先程までは扉の在った戸口から吹き込む夏のシベリアの外気が、背の白いマントをさわさわと揺らす
セルゲイを除くその場の男達は、数年ぶりに目にするアレクサーの勇姿にガタガタと満身を震わせ始めたが、を腕の内に収めた男だけは薄っすらと不気味な笑みを浮かべた
「よぉ、久しぶりだな。やっぱりアンタにはその氷闘衣がよく似合う。」
セルゲイの腕の中で身動きを封じられたは、唯一動かせる頭部を少しづつ前方に突き出しはっと息を呑んだ
の視界の中に佇むアレクサーは、これまで見た事も無い姿での脇に立つ男をきつく見据えている
白銀にごく薄い水色を溶かした様な鎧――おそらく氷闘衣と言う名なのだろう――を纏ったアレクサーは、の知らない男の様にも感じられた
…これが、二年前までの彼の姿…!
恋人としての現在のアレクサーの姿を知らなければ、確かにそれがであっても若干の恐怖感を抱いてしまうかもしれない
…真に、戦神。
武器こそ携えぬこの男の鋭い視線を投げ掛けられたが最後、誰もが戦意を喪失してしまうだろう
二年前と変わらぬ――いや、二年前以上に――厳然とした気迫で周囲の男達をその場に釘付けたアレクサーは、薄ら笑いを浮かべる男に対しようやくその薄い唇を開いた
「一度だけ言う。…を放せ。」
カツン。
アレクサーの纏う氷闘衣の踵が一層高い音を立て、主の身を更に一歩前へと導く
「おっと、それ以上前には来るなよ、アレクサー。」
ククク…と故意に下卑た笑い声を突き付け、セルゲイはアレクサーを制した
前へ乗り出した形のアレクサーはその場でピタリと動きを止めたが、鬼気迫る形相の口元だけが僅かに動いたのをセルゲイは見逃さなかった
さも可笑しげに首を傾けると、セルゲイは腕の中のの顎をもう片方の手で軽く掴みアレクサーを向かせた
「アレクサーよ、この女に随分入れ込んでるみたいだな。…まさかアンタがこんな外国の女などを相手にするとは、ついぞ二年前は思いもしなかったがな。」
「二年前の…あの頃の愚かな俺はもう居ない。ただそれだけの事だ。
だが、翻ってお前達はどうだ。相も変わらずの愚行を繰り返そうとしている。…好い加減に目を覚ませ。」
「お前こそ随分御立派な物言いになった事だな。無論、舌先の上っ面だけの事だろうが。
今度は弁護士先生にでもなるつもりか、アレクサー。…お前のその長い舌先で言い包められるマヌケな奴等が居ればいいがな。
その点、俺達は違う。…この国の事は総てこの国の人間に委ねられるべきだ。それを妨害する者は総て除外する。…力ずくでもな。」
「どうしてもっと大局に立って物を考えようとしない!?
お前達は『民族自決』などと言う外部から与えられたイデオロギーの甘く都合の良い部分に酔っているだけだと気付かないのか?
二年前の事件の後、完全な独立を護っていたこの国が諸外国の介入を許してしまった事を忘れたとは言わせない。
…今、お前達のやろうとしている事はその再現に過ぎない!しかも更に悪い方向に拡大して、だ。」
瞠目し、嘗ての仲間を説き伏せようとするかの如きアレクサーの口調の激しさの中にこの国を憂える彼の真意を感じ、はセルゲイの腕の中からアレクサーを見上げた
…アレクサー、この人達まで含めてこの国の誰一人としてこれ以上不利益を被らないように、と思っているのだわ
やはり、真の『王者』は違う。
眼前の、蒼き鎧を纏う男に生まれながらの王たる威風を再三痛感し、は一つ小さな溜息を零した
の側に立つ男がそれに気付かぬ訳も無い
チッと短く舌打ちをすると、セルゲイは再度アレクサーに己の優位を示すべく畳み掛けた
「御高説はそれまでだ、アレクサー。それよりも、今現在のアンタの状況をもっと理解して貰いたいものだ。
…アンタの目の前にいるのは見知らぬただの女か?」
ピタリ、とセルゲイの右手が手刀の形を成しての頸部に押し当てられた。これほどまでに歴然とした脅迫の意図を示す行為は他に類を見ないだろう
一度は振り上げた己の腕をゆっくりと下ろし、アレクサーは苦渋を満面に滲ませた
道を踏み外した者までも遍く救わんとする王者の気概も、脅迫と言う名の卑劣窮まる行為の前には俄かに陰りを帯び、鉛の重さに沈む
「…お前達の要求は何だ。」
舌打を隠したアレクサーの苦悶の表情の上に己の優越を重ね、セルゲイはニヤリと唇の片端を吊り上げた
「判っているんだろう、俺たちの要求は。」
「さあな、お前の考えなど知る由も無い。」
口にした言葉とは裏腹に、アレクサーの脳裏にはセルゲイの意図がこれ以上無い程にはっきりと掴めていた
――それは、自宅の玄関に貼られた血の滴る脅迫状を見た時から気付いていた事だったのだが。
あくまでも白を切ろうとするアレクサーの仏頂面を斜めから見上げると、セルゲイはの腋下に回した腕に一層の力を込めた
の肋骨がメリメリ…と悲鳴を上げ、その鈍い音がの咳き込む声と共にアレクサーの耳を鋭く刺す
「アレクサー、俺にはどうやら不足している素質があるらしい。…アンタにあって俺に無い物。それは一体何だろうなぁ?」
「………。」
アレクサーはセルゲイの質問に対し、沈黙を以って応えた
それは、正解であるが故に今の状況では決して言葉に出来ないからである
セルゲイはアレクサーのその無のジェスチャーに満足げに頷いた
「そうだ、良く判っているじゃないか。…嗜虐心に満ち満ちたこの俺に不足しているのが『人を率いる徳』だって事をな。
だからこうしてアンタに頼んでるんじゃないか。俺たちをもう一度率いてくれ、とな。」
「…もし、断ると言えばどうする?」
「ほぉ、今のアンタに断る自由があるとでも言うのか、アレクサーよ。」
再び無言に落ちたアレクサーを更にじわじわと追い詰めるのを愉しむ素振りで、セルゲイはの頸部に当てた己の手刀を僅かに離し、音も無くもう一度近付けた
ピッ。
の首の右脇にスッと一本の直線が走り、鮮らかな真紅の軌跡を描いた
ひっ、と小さな悲鳴がの口を突いて零れる
…それは、このブルーグラードを訪れて間も無い夜にNGO本部への道を急ぐの頬を掠めた物と同じ衝撃であった
…アレクサーの持つ不可思議な能力とは性質が違うけど、このセルゲイと言う男も何か良く判らない力を持っているみたいだわ。
己の首から滴る生温い液体をはっきりと感じながら、は隙在らば逃げ出そうと機会を窺い続ける事を放棄せざるを得ないのを悟った
が仮に隙を見出して逃げ出そうとした所で、セルゲイは次の瞬間には微塵の躊躇も無く己の拳をに振り上げるに違い無いのだから
残念ながら、ただの一般人であるには――それが寧ろ普通なのであるが――この状況を打開する策は今の所何も見当たらない
卑劣且つ下劣極まりない男の腕の縛めの中ではただがっくりと身体の力を抜き、せめて滴る血の勢いを減ずるより他に為すべき道は残されていなかった
…だが次の瞬間、項垂れたの視界が俄に蒼白の光に満たされた
はっと顔を上げた拍子にの頸部の傷から新たな血糊が滴ったが、その痛みを感じている場合では無い
「セルゲイ、貴様……そこまで俺の逆鱗に触れたいか。」
……の目の前に立つ愛しき戦神は、ギリシャ彫刻のような端整なその顔に怒りを交え、まさに文字通り彫像の冷酷な面持ちで嘗ての部下の前に立ちはだかった
青白い光はアレクサーの身体から発せられたもので、強い気流の渦を伴いながら徐々にその大きさを増して行く
アレクサーの背を流れる純白の絹布のうねりをただじっと見詰めながら、は武力になど訴えたくないであろうアレクサーの内心の苦悩を慮り、愁眉を寄せた
「…やっとやる気になったか、アレクサーよ。」
封印しておいたアレクサーの刀を抜く。
これこそが俺の狙いよ、と言わんばかりにセルゲイはほくそ笑んだ
アレクサーの発した小宇宙の大きさに腰を抜かした部下に顎で合図すると、羽交い絞めにしていたを逃がさぬ様巧妙に渡し、セルゲイはその場に身構えた
プッ、と再び唾を床に吐き捨てる
「そう来なくっちゃなぁ。俺たちのボスはやはりアンタをおいて無いぜ、アレクサー。」
「…黙れ。」
痴れ者が。
アレクサーの突き刺さるような視線からは最早軽蔑以外の物は感じ取られない
その怒りの感情の増幅に合わせ、パシパシとアレクサーの周りで閃光が激しくスパークする
「折角のその能力を活かさない手は無いと俺は提案してるんだがなぁ。しかもアンタは領主様の息子だ、人徳も名声も実力もこれ以上無い程にある。
………尤も、その領主様は誰かが殺したんじゃなかったかな。」
――父殺し。それはアレクサーのもう一つの逆鱗だ
無論、それを重々承知の上でセルゲイはわざとそれをアレクサーの眼前にちらつかせている――アレクサーに刀を振り上げさせる、ただそれだけのために――
セルゲイのその目論みは、ある点では成功を収めたと言えよう
…だがその喜ばしい成功は、同時に策謀者であるセルゲイに不幸をももたらす結果となった
目の前でに危害を加え、その上死した父・ピョートルに纏わる記憶を呼び起こす挑発によってアレクサーから引き出した怒りの強さを正しく見積もり損ねてしまったのがセルゲイの不幸だった
――セルゲイの口から二つ目の逆鱗が吐き出された次の瞬間、パシパシとスパークしていた青い光が大きく膨張し、セルゲイに向けて爆発した
光の散逸した跡には、放射状に大きく抉れた床と共に満身から鮮血を噴出し倒れ伏したセルゲイの姿があった
「…アレクサー!」
技の余波を受けた訳でもなしにその場にへたり込んだ手下達の隙を突いて、はアレクサーの元にさっと走った
横たわるセルゲイからは少しばかり離れた場所で真っ直ぐに立つアレクサーは、解き放った己の力の余韻に歪む空気の中でフッと短く息をついた
ひとまずの危機を回避した安堵なのか、それとも二度と揮わぬと誓った己の『武』の力の封印を解いてしまったが故の慙愧の念の現れなのか、それは他者には判らない
…或いはその両者かもしれない
「…。」
呼気を洩らした愛しき男から僅かに距離を置いたの憂い顔に気付き、アレクサーは片腕を差し伸べるとを引き寄せた
氷闘衣が持つ、金属特有の冷ややかな感触がの身体に拡がり、その背からはマントが触れるサラリとした音が掠める
目元の厳しさを緩めたアレクサーは、腕の中のを優しげに見おろした
「…もう大丈夫だ。君が無事で良かった…。」
が無言で頷き笑みを浮かべるとアレクサーも一つ頷き、右手での顎に触れ上向かせた
セルゲイによって傷付けられた首の傷口からはまだ鮮やかな血が流れている
の顎から外した右手の指でアレクサーが傷口を触れると、不思議な事に出血がピタリと止まった
己の指に付着したの血液を自分の眼前に翳し、アレクサーは顔を曇らせた
「…すまない、。俺は君を護ってやれなかった。」
「それは違うわ。今こうして、私は貴方の目の前に居る。…それはアレクサー、貴方のおかげ。彼らに捕まってしまったのは私の責任だもの。
……それよりも、私は貴方の誓いを破らせてしまった。折角、二度と武力を用いないと誓ったのに。」
そう言って口惜しげに肩を落としたを見遣ると、アレクサーはその顔に向けてゆっくりと数回頭(かぶり)を横に振って見せた
「君のためだから、敢えて俺は誓いを破った事を悔いはしない。
………愛する者を護れない人間に『国』を護る資格は無い。だから、君は何一つ気に病まなくて良いんだ。」
「…でも…。」
「無論、誓いを破るのは今回だけだ。…この国の自由を取り戻すためには、断じて武力を用いるつもりはない。セルゲイが何と言って唆そうとも、な。
………しかし。」
そこで言葉を切り、アレクサーは一旦脇に視線を逸らすと再びを向いた
自分を見上げるの視線が言葉の続きを欲している
「…、君を護るためなら、俺は何度でも己に課した禁を犯してしまいそうだ。
セルゲイからの脅迫状を見た時、心底そう思う程に怖かった……。」
まさかアレクサーの口から『怖い』となどと言う単語が飛び出すとは思いもしなかっただったが、やがて口元に笑みを湛えると頭上のアレクサーの頬を引き寄せ、口付けた
「ありがとう、アレクサー。」
二人の唇が離れた後、アレクサーはを抱き抱えると戸口に向かって歩き始めた
チラ、と振り向き様に表情を変え、その場から立ち上がる事すら叶わぬ昔の部下達にごく短く吐き捨てた
「…まだ息はある。セルゲイを助けてやれ。もし命を取り留めたなら伝えておけ、俺は断じて今のお前達と組む意志は無いと。
ただし、お前達が武力を放棄すると言うのなら話し合う用意はある。あくまでも、武力行使の放棄と国外勢力に対する強硬な排斥を止める事が前提だが。
それともう一つ。俺は逃げも隠れもせんが、やナターシャに手を出したら最後だと肝に銘じておけ。」
すっかり呆けた表情の男が、口を開いたままでコクリと頷いた
無に帰したかと疑う程静まり返った小屋に、アレクサーの纏う氷闘衣の醸す踵の音だけが冷たく響き渡った
×××××××××××××××××××××
を抱えて帰宅したアレクサーを出迎えたナターシャは、の無事を喜ぶと同時に兄の氷闘衣姿にショックを露にした
「…兄さん、それは……!」
「何も言うな、ナターシャ。」
アレクサーは妹を制し、手が塞がっている自分に替わって玄関の扉を閉じるよう目配せをした
兄の横を通り過ぎたナターシャが通りの様子を窺いながら静かにドアを閉め、鍵を施す
「兄さん、さんは無事なのね…?」
「…私だったらなんとも無いわ。心配させてゴメンね、ナターシャ。」
アレクサーの腕の中からひょいと顔を上げてが言葉を返し、ナターシャに笑い掛ける
どうやら瀕死の重症を負った訳ではなさそうだと悟ったナターシャは、ほっと胸を撫で下ろした
…だが、破れたシャツからチラリと覗くの頸部に見覚えの無い紅い傷が刻み込まれている事に気付かぬ筈は無い
ナターシャは俄にその表情を曇らせた
「ナターシャ、すまないがお前の服を一着ほど貸してくれないか。を着替えさせてやって欲しい。」
「…判ったわ。」
アレクサーは無言で頷き、を抱えたまま自室への階段を昇り始めた
…それから十分程経った頃、アレクサーは血痕の付いたシャツを手にした妹と入れ替わりに自分の部屋の敷居を跨いだ
何時もは自分自身が使うベッドに、着替えを終えて人心地付いた様子のが横たわっている
アレクサーが入って来た事に気付いたが顔を起こして笑い掛けると、アレクサーは後ろ手でドアを閉じ、のすぐ脇に腰を下した
「…私、つい数時間前にもこの部屋に居たのに、今こうして貴方のベッドに寝てる。何だか違う部屋に居るみたい。」
「ああ…本当だな。」
…本当に、何日も経ったほどにも感じる。
アレクサーはの髪を指で掬い、安心させるために優しく何度も撫で付けた
目を細めてが笑う
「今夜は俺がこうして横に居るから、ゆっくり休むと良い。」
「…アレクサー、貴方は寝ないの?」
「構わない。君が俺の側で健やかな寝息を聞かせてくれるだけで良い。だからゆっくり寝るんだ。」
「…ええ。」
の髪を撫でていた手を背中に滑らせ、アレクサーはに軽く口付けると脇に寄せた椅子に座った
「俺はずっと此処に居る。…その傷が癒えたら俺が君の家まで送っていくから、何も心配しなくて良い。」
…家。その僅か一文字に、の脳裏ですっかり忘れていた懸念が鮮明に蘇った
そうだ。今夜私が帰って来なかったら、カノンが街中まで探しに来るかもしれない。
此処を探し当てたりはしないと思うけど、何としてもアレクサーと居る所だけは見付からない様にしないと…!
困憊して次第に遠ざかって行くの意識の片隅で、ただ明日への不安だけがチカチカと暗く瞬いていた
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